世界的に名の通った大企業でさえ、従業員のメンタル対策が遅れていることを指摘してきたが、何を以って遅れていると考えるかといえば、「予防こそ最大のリスクマネジメント」という意識が欠けている点だ。日本の有力企業のなかにはメンタルヘルス対策「先進」企業があるが、そんな
先進企業の関心と施策はすでに、個別相談や休職・復職に関する制度から、より専門的技術、精神医学的技術を要する「予防」的視点に移ってきているのである。
海外駐在員のストレスは国内の3倍、精神障害の発病率も同じく3倍といわれているが、特に中国駐在員の心理負担は、最近の中国をめぐるビジネス情勢に鑑みれば「現地在住でなければ分からない」レベルに達していることは想像に難くない。ところが、
本社サイドの然るべき立場にある方に想像力が欠如していると、不幸な事態を招くこともある。今回はその典型的な例として、駐在員M氏のケースをご紹介しよう。むろんご本人の了解は得てある。
◆「たまには仕事も・・・」
M氏は中国に何カ所も拠点をもつ大手企業A社の、北京にある中国事業統括会社(いわゆる傘型企業)に勤務する駐在員だった。
周囲からは「悩みがなさそうでいいね」と言われるほど明るく社交的な人柄だけに、気分が落ち込むようなことがあっても、却って相談できる相手はいなかった。
私がM氏からメンタル相談を受けたのはまさにそんな時期で、
どこで診て貰っても「異常なし」と言われる慢性的な体調不良が続いていた。そのため、
彼は日本への帰任を申し出ようかとまで思いつめていたのである。考えられるストレスの原因は後述するが、ある日私は、彼がこうコボすのを聞いた。
「先生、聞いて下さいよ。この間、日本から当社のお偉方が来た際にゴルフやらカラオケやら、いろいろ接待したんです。そうしたら、そのうちの一人が何と言ったと思いますか?
『君たちはいいなあ、こんなに遊べる環境にいられて。羨ましいかぎりだよ。でもM君、たまには仕事もしてくれよな』ですよ。いくらなんでもカチンと来るじゃないですか、こういう言い方は」
M氏としては、本社幹部が冗談のつもりで言っていることは百も承知だったが、体
調がすぐれないこともあって、この一言に大きなわだかまりを感じたようだった。おそらく本
社幹部の北京に対する認識は何十年も前のもので、文句なしのアミューズメント環境が揃っている現状に驚いたに違いない。そこで
思わず口走ってしまった冗談なのだろう。しかしそこには、
現地の仕事内容に対する想像力のかけらも感じ取れない。あるのは、ただただハード面に目を奪われるだけで、本質を見ようとしない貧しい視点のみだ。
◆針のムシロの日々
M氏はまた、
「たまには仕事もしてくれよ」という冗談を、「君はちゃんと仕事してるのか?」という詰問のように感じたとも言った。普段なら一緒に笑って済ませられるはずの冗談を彼がそう受け取った背景には、実は、もともと本人が体調不良の原因かもしれないと言っていた仕事上のトラブルがあった。傘下企業で発生した商品の横流しである。この事件は結局、中国にあるA社拠点企業間の問題にまで発展してしまったのだが、すべての原因はM氏のマネジメントミスにあるのではないか、という声が関係者の間に挙がっていたのである。
問題の発端となった商品の横流し自体は巧妙に仕組まれていたもので、必ずしも統括会社に在籍するM氏のマネジメントのミスだけに責任が帰せられるべきものではなかった。それは後から判明したことだが、問題が顕在化してからしばらくの間、M氏は針のムシロの上で過ごす毎日だった。日本では絶対にあり得ないことだし、マネジメントシステムだって、もともとこういう事態を想定していないではないか・・・。そう
叫びたい思いが募らないわけではなかったが、何を言っても言い訳にしかならないというあきらめに似た気分が強かったという。本社幹部が北京にやってきたのは、彼がまさにそんな大きなストレスを感じていた時期だったのである。
彼からのメンタル相談を受けた私は、現地の知人の医師の協力を得ながら、
初めは個人的な症状の治療的解決を図ることを目的にやり取りをしていた。しかしその後、症状がやや悪化し、このままではまずいという状態になった。私はM氏本人を交えて現地統括会社の責任者と日本の本社人事担当者と話し合った。その甲斐あって、結果的に彼は無事に本来の任期を終えて本社に戻り、今は東京でハツラツと仕事をしている。
◆意外な調査結果
急増するメンタルヘルス相談の実態を調査するために、私自身もこの
1年間で8回中国に渡った。相談を受けながら、中国という国の事情、中国ビジネスの実態、日本企業の葛藤を知る必要があったからである。そしてそれらを詳しく知るにつれ、そこには私の想像とは違った独特の悩み、つまり任地が中国だからこその悩みがあることが分かった。
中国の駐在員には、もちろん
余裕があるように見える方も多かった。しかし私たちが調査したところでは、
約50%がビジネス上あるいは生活上の何らかの耐え難い苦痛を感じており、45%がなんらかのストレスを感じていると答えた。スッキリさわやかに暮らしていると答えたのはわずか5%にすぎなかったのである。
他国の駐在員と比較して、これは実に意外な結果だった。
同じ頃に行われたサーチナ総合研究所とマイボイスコムの日中比較調査では、
日本で働く日本人の34%が仕事上のストレスを感じているということだった。しかし
中国では、仕事上のストレスを感じている駐在員の割合が高いだけでなく、ストレスの質や程度、メンタルヘルス悪化の深刻さが異なっていたのである。
中国駐在員たちの多くは、たしかにタフだ。しかしそれは見かけ上のことであり、本人たちも気づかないうちに内面的な問題が深刻化しているのである。こんなことを言うとカッコよすぎるかもしれないが、実は今の私の仕事のモチベーションは、そのときに感じた「これは何とかしなければならない」という思いにほかならない。
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専門医による渡航前コーチングとは
by 株式会社MD.ネット 佐野 秀典
精神的なトラブルは、健康な状態にあるときから専門医と定期的にコミュニケーションを図ることで、未然に防ぐことができる。日常の些細な問題を把握しながら、健康を維持するために必要なことについて個別のアドバイスが得られることの効用は意外に大きいのである。まさに予防システム、こうした考え方こそが在中邦人のメンタルヘルスの基本であることは連載中にお伝えしたとおりだ。問題が起きてから対処しても遅いのだから、これは当たり前といえば当たり前の話なのだが、残念ながら多くの企業では、この当たり前のことがきちんと行われていない。
むろんこうした予防システムには、赴任先の地域や本人の職務を深く理解し、かつ内科的知識のある精神科の専門医が必要になる。しかし一人ひとりの人材が企業にとって重要な経営リソースであるなら、
予防システムのカギとなる専門医を用意しておくことは最低限の義務だといっても過言ではない。といっても、赴任者や駐在員に対して
専門医がどんなケアを行うことができるのかは企業関係者の間でもあまり知られていない。そこで今回は、専門医のアプローチの一端をご紹介することとしたい。
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